SNSも人間も嫌い、のつもりだった
SNSが苦手だ。
例外的にツイッターは重宝していて、アカウントも複数を使い分けている。喋ったり書いたり吐き出しながら思考を進めるタイプの僕にとっては、細切れに書けて推敲は出来ない、思考の堂々巡りをさせない奇跡のようなツールだ。
僕はネットゲームでも、「ギルドメンバーの○○さんがログインしました」が苦手だった。もちろん誰かと一緒に遊びたいからネットゲームをやるのだが、いつでも誰とでもチャットがしたいわけじゃない。「試験前だからしばらくゲーム控えるわ」なんて宣言してしまうと、息抜きにログインした時に「勉強はどうした」とギルメンから総ツッコミを食らう。深夜に知り合いと出くわせば、「明日の仕事は大丈夫か」「お前こそ」なんて気まずい会話をする羽目になる。
ゲームなら「不健康なのはお互い様」と笑い話にもなるのだが、SNSの場合、「この人こんな時間にネットしてたんだ……」などと引かれるかも知れない。自分がそう思われるのも嫌だし、知人に対して思ってしまうのも嫌だ。実際には深夜にトイレに起きたついでの気まぐれだったとしても、人間の想像力は無駄に勝手に逞しい。
SNSと呼べるものがmixiしかなかった時代、僕は足跡を非表示に、他人の日記を読んだ履歴も分からないようにする機能が欲しいと思っていた。それでも既読通知と即返信が当たり前となった今にして思えば、随分気楽なSNSだったと思う。
暮らしていく中で、関わる相手を選ぶのが難しい、必要以上に詮索されても避けづらいと悩んでいる人は多いだろう。密度の高いSNSも同様で、僕はこうしたコミュニティには適さない。ネットもゲームも、誰の目も気にせず、好きな時に好きなようにやりたい。
しかしブログを書く分には、あるいはツイッターで呟く分には平気なのだと気が付いた。これらは自分の意志で公開する領域を選択出来る。他人に見せたくない領域が一般平均より広めの僕の心だが、見て貰いたい領域もある、ということだ。
僕は人間が嫌いなわけでも、会話が嫌いなわけでもないのだろう。ただ誰に対しても平等に関心を持つことは出来ず、平等に心を開くことも出来ない。俺に関心を持てよ、お前の腹の内を見せろよ、と言われるのがイヤなのだ。相手と公開領域の取捨選択が難しいから全部を閉め出して、その結果が一見人間嫌い会話嫌いだったのである。
これは文章の形で情報を選び出すネットというツールがあったから分かったことで、現実の人の輪の中では永遠に自覚出来なかったかも知れない。
プライバシーがどうのとうるさい時代に、夜中に携帯電話を見ていることまで筒抜けになるツールが流行る。不可解な現象だとは思うが、こちらは取捨選択が難しいから全て出してしまえ、という発想なのだろうか。