夜明けはいつになりますか

発達障害持ちゲームオタク、社会からドロップアウトするの巻

思考停止

 12月までお休みします。
 理由は簡単、コミケの締切前だから。

 このブログ、実は職場の昼休みにおおまかに書いて、帰宅してから推敲して更新している。
 今週はとうとう家での睡眠時間を削り通勤中と昼休みに眠るという非常体制につき、脱稿までのしばしの思考停止である。

 夏コミ分はGWにまとめて作業してしまったので、働き始めて一年と少し、働きながら書く側のオタクをするのは大変だと初めて実感した。
 来年は余裕のある職場に移っていたいなぁ。

モテない女子の願望考察

 インターネットの匿名掲示板「にちゃんねる」には「もてない女」、略して「喪女」というカテゴリの掲示板がある。モテないことを気に病む女性たちの嘆き と怨嗟がとぐろを巻く魔窟だと思うと恐ろしくて、僕は覗いたことがない。板が成立するほどの母数がいて同病相憐れむ状態なのかと思えば、尚更恐ろしい。
 しかし僕は、彼女らに問うてみたいのだ。「あなたたちは本当にモテたいのか」と。

 僕だって、モテたいとは思う。

 と、かように表現すると言葉が足らない。

 僕は、人からチヤホヤされたいといつも思っている。

 これである。君は魅力的だ、価値のある人だ、と言ってもらえるなら実のところ相手の性別や褒められる理由はどうでもよい。とにかく存在を認められたい。ただチヤホヤされている状態というと、見た目にも言葉にするにも「モテる」という表現が分かりやすいと思われる。
 僕が異性にモテるための努力を一切しないのは、「モテたい……」という言葉の裏の「チヤホヤされたい……」を自覚しているからだ。
 あながちすっぱいブドウとも言えない。女という性にあまり思い入れがない以上、「女として」チヤホヤされてもあまり嬉しくない。いわゆるモテファッションも好きではないから、そういう服装をして認めてもらったところで、借り物を褒められたような気持ちになると思う。気遣いだけはスマートに出来る人間になりたいと思っているが。

 異性にモテずとも魅力的な人間が、この世にはキラキラゴロゴロしている。俺はこの服が好きなんだ!と人の目を意に介さぬ人、時間とお金の全てを趣味に注いでいる人、僕の目にはそういう人たちの方が魅力的に見える。
 僕自身もきっと、そうありたいのだと思う。好きなことを好きなだけやってチヤホヤ認められたい、どこまで強欲なんだとツッコミを入れたくもなるが、願望を抱く分には自由であろう。

 喪女たちよ、異性にとって魅力的なのはもちろん良いことだけれど、あなたたちはその先に何を望んでいるのかね。

主婦という名の孤独な戦士

 我が家の母は専業主婦だ。そしてすげぇ働き者である。
 朝は早くに起きて美味しいお弁当を作り、夜は帰りが遅い家族を待つ。別の家族が翌朝早い場合は、その見送りのために「ごめんね、先に寝ます」と書き置きをして眠る。どんなに忙しい日でも一日の食事は最低15品目、平均は20品目以上。晴れた日には必ず布団をお日様に当て、簡単な服なら自作してしまう。
 我が家の場合は自家用車がないことも挙げておかねばなるまい。「車なしで暮らせるの?!」と驚かれる程度の田舎で、母は家族四人分の食料を自転車で買い出しに行く。流石に米なんかは、御用聞きや協同組合の宅配のお世話になっているが。

 これらを有料サービスで代用するとしたら、自動車を一台購入して運用するだけでも、結構な額のお金が必要になるだろう。母の労働はこのコストをゼロにしているのだから、彼女のお陰で我が家が自由に使えるお金は増えているわけだ。言い換えれば、豊かさが増している。
 我が家の暮らしを豊かにするべく毎日真面目に働いている母は、本当に立派な「職業:専業主婦」だと思う。

 そこまでやらない主婦の方が多いというのは、何となく聞いているし察しているが、彼女らのことをどうか責めないで欲しい。僕も主婦をやったことがないので、的外れかも知れないけれども。

 人間のモチベーションの高さは、自分の行動の結果に対する期待値と等価である。これをやり遂げたらお金が得られる、感謝して貰える、仲間と笑える──内訳は様々だろうが、行動の先に見返りがあるから頑張れるのだ。
 外で働いている場合、誰にもありがとうと言ってもらえなくても、やったことに意味があるから給与が支払われる。薄給だけどお客様の笑顔が好き、という逆のパターンもよく見る。誰かの役に立っていると実感する仕組みがある。

 だが主婦の職場は、どれだけ頑張っても昇進も昇給もない。協力出来る同僚もいなければ、大きな物事をやり遂げる達成感もない。ひょっとしたら感謝の言葉すら無いかも知れない。
 怠惰なわけではないのだ。労働と報酬の繋がりが感じられないから、脳が勝手に無駄な労力は使いたくない、やる価値のない作業と判断してしまうのである。

 夫の皆様、妻にはお金を渡しておけばいいというものではないのです。働いたことに対して「ありがとう」と一言の報酬があれば、それが仕事に対する評価として認識されるなら、次も頑張ろう、次はもっと頑張ろう、と思えるようになるのです。逆もまた然りで、どれだけお金を渡されても労働の対価と感じられないのであれば、それは働き甲斐にはならないのです。

 我が家の父はお礼をあまり言わない。でも、母が作ってくれたご飯が美味しいからと言ってあまり外食をしない。家族旅行の度、お母さんが倹約してくれてるから行けるんだと言う。結婚記念日には花束を買って来る。
 母が勤勉な主婦でいられるのはこの人のお陰なのだろう、としみじみ思う僕である。

呼吸の教え方

 僕は天性の運動音痴だ。

 登り棒にはついぞ登れるようにならなかったし、跳び箱には正面衝突するし、逆上がりも側転も出来ない。キャッチボールは基本顔面で受け止める。よって体育の成績は常に五段階評価の2と3を行き来していた。体を壊した後は授業は見学になってしまったから、悪化こそすれ改善はしていないだろうと思う。

 そんな僕は体育の先生という存在について、昔から猜疑的であった。

「ほらバランス取って!」

 それが出来ていればそもそも平均台から落ちたりしないのである。つまりこの言葉は、指導どころか助言の役割すら果たしていない。最初から無意識に出来ている学生にとっては尚更意味がない。

 呼吸の仕方を説明出来る人間はいないだろう。まずは吐いて、横隔膜を引き下げて、という指示はパニックで呼吸が出来なくなっている人には有効だが、そもそも呼吸の仕方を知らない相手に「肋骨の間に空気を送るように」なんて伝えても通じるまい。
 体育の先生には元々運動が得意な人が多いはずだが、呼吸のごとく無意識にやっていることを他人に教えられる人間がどれだけいるというのか。それはすげぇ難行であると、僕は思う。と言うか無茶である。

 教わるなら、僕は運動音痴の体育の先生に当たりたかった。苦手だったことを人に教えられる程度まで克服した人がいるのなら、それは教科を問わず、そもそも勉学に限らず、誰もが真似を出来る素晴らしいお手本のはずだから。

ニートからの社会復帰、復帰からの転職

 転職活動を始めた。

 僕がニートからの社会復帰1年目であることはプロフ欄にも書いてある通り。就職活動を始めた時点の僕の市場価値は、それなりに惨憺たる有様であった。
 何しろ27歳職歴なし長期バイト経験なし、大学を卒業したのは25歳の時で、3年の足踏みの理由は病による留年と休学、病名はうつ。卒業の後は療養の名目で引きこもり、二年弱のニート生活を送っていた。20代の四年制大学卒が就活市場最底辺を名乗ってはいけないのだろうが、それなりのワケアリ問題物件である。

 そんな僕は就職説明会にはほとんど参加せず、国の第二新卒インターンシッププログラムを利用した。これは試用期間中の給与を国が肩代わりするもので、人事に予算を掛けられない中小企業への支援と未就業者の職業訓練を兼ねている。
 一見素晴らしい制度だが、企業にしてみればタダで人を働かせることが出来るので、誰にでも出来る雑用をさせて試用期間が終わればポイっということもままあると聞く。「使い物になれば採用する」という企業に当たった僕は幸運だったのだろう。
 とにもかくにも僕は無給の労働者として会社に入り、幸いなことに業務に耐える能力があると判断され、採用に至った。

 だが……だが。

 労働条件はかなり悪い。以下しばし愚痴である。給与は労働省の定める最低賃金と一円単位のせめぎあいをしており、もちろん賞与も諸手当もなく、年間所定労働時間は労基法の制限とは数時間の僅差で、月30時間の残業は事実上のノルマだ。特に最後のが曲者で、残業時間を稼ぐために業務時間中に手を抜く人がいるので精神衛生に悪い。研修なんて上等なものはなく、僕は我流と独学でソフトの操作を習得し、自腹で本を買って勉強をした。

 何故そんな所に、と問われれば、僕はとにかく職歴が欲しかったのだ。仕事を選り好み出来るのは労働に耐える心身の持ち主だと証明してからだと考え、あらゆる条件を二の次にした。
 年間休日数80日足らずの職場で一年働いたことで、当初の目的は必要以上に達成された。おまけとして専門性の高いソフトも扱えるようになった。良くも悪くも現状に適応してしまう人間の本能が働く前に、転職に向けて動き始めた次第である。
 ちなみに仕事の内容自体と、各自が作業に没頭している職場の雰囲気は今も気に入っている。好きになれる業界だったから勉強も楽しかった。事務もコピーもお茶汲みもやぶさかではないが、そうした業務について回るという女性の陰湿な人間関係を思えば永遠に遠慮しておきたい、そうだ出来れば同業他社がいい。
 素敵な転職先が見つかるといいな、と願い事手帳をいそいそと取り出す僕であった。

減食ダイエットのヒント

 「痩せたい」と言いながら大量に食べる人たちを観察していて、気付いたことがある。

 僕は食が細い。胃袋の容量自体は高い身長に比例しているのだが、普段の食事では八分目どころか1/3程度の量で満腹を感じているようだ。
 コース料理や、食べた端から皿を入れ替えて行く焼肉屋のような場合は、たぶん人並み以上の量を食べている。
 一人ずつ皿が独立しているお店だと、少なめのメニューを選びがちだが一人前の食事を取る。
 大人数が大皿から取り分けて食べる場合、欲しいだけ取っているのに「そんなに遠慮しなくても」と言われ、具合が悪いのかと心配される。
 この三つの場合を考えるに、僕はどうやら「見ただけでお腹いっぱい」になっているらしい。大皿の料理は全部が僕のものではないけれど、「こんなに食べてる」と錯覚を起こして満腹感を覚えるのである。逆にそれが見えない時は、加減が分からず大量に食べてしまう。

 で、「沢山食べる人」というのは、普段から「自分がどれだけ食べているか」が見えない食生活をしている気がする。
 例えば白ご飯のおかわりをする人は、常にお茶碗一杯分のご飯しか見えていない。「これだけの量を食べた」と実感がないから、胃袋が食べ物で重たくなってから満腹を自覚する。ゴミの量の分からない買い食い、皿を順次下げる外食も同様だ。

 こういう人は減食ダイエットをしようとする時、やたら厳しい制約を課しがちである。量を極端に切り詰めたり、カロリー計算されたレシピ本を買って来たり。そして挫けてリバウンドする。
 自分がどれだけ食べているかを把握していないから、誰の目にも明らかな減らし方をしないと減っていることが分からないのだ。

 そんなわけで僕は、減食をするなら全ての食べ物を最初に食卓に出し、大皿ではなく一人前ずつの皿に盛ることを勧める。僕はダイエットが必要な体型になったことがないので、これで痩せました!とは言えないのだが。
 最初は減らさなくて良いので、自分が食べている量を把握する。そこから一口分を減らすのはおかわり禁止よりは簡単だと思うし、自分がどれだけ食べているのか、減らしたのか、カロリー計算表を作るまでもなく目に見える。
 よく噛んで時間を掛けて満腹感を得るというのも、食事量を減らす前、時間がある時にやってみるといい。「どれだけ噛んでもこれくらいは食べないと満足出来ない」、逆に言えば「これだけ食べれば満足できる」が分かるはずで、次からはその量だけを用意すれば良いのである。
 それらは完璧に計算し尽されたダイエットメニューよりは高カロリーだろうが、昨日の食事よりは確実に低カロリーになっているはずで、何もせずにいるのとは全然違う。

 とはいえ栄養学関係の本は一読しておきたい。低カロリーの食材を選べば、量を減らす必要すらなくなるかも知れないからだ。
 我が家の父は「レーズンパンはドライフルーツだからヘルシー」等と主張するのだが、それはでんぷんとバターと果糖、カロリーの塊の代表格のような食品である。知識がないというのは、つまりそういうことです。

SNSも人間も嫌い、のつもりだった

 SNSが苦手だ。
 例外的にツイッターは重宝していて、アカウントも複数を使い分けている。喋ったり書いたり吐き出しながら思考を進めるタイプの僕にとっては、細切れに書けて推敲は出来ない、思考の堂々巡りをさせない奇跡のようなツールだ。

 僕はネットゲームでも、「ギルドメンバーの○○さんがログインしました」が苦手だった。もちろん誰かと一緒に遊びたいからネットゲームをやるのだが、いつでも誰とでもチャットがしたいわけじゃない。「試験前だからしばらくゲーム控えるわ」なんて宣言してしまうと、息抜きにログインした時に「勉強はどうした」とギルメンから総ツッコミを食らう。深夜に知り合いと出くわせば、「明日の仕事は大丈夫か」「お前こそ」なんて気まずい会話をする羽目になる。
 
 ゲームなら「不健康なのはお互い様」と笑い話にもなるのだが、SNSの場合、「この人こんな時間にネットしてたんだ……」などと引かれるかも知れない。自分がそう思われるのも嫌だし、知人に対して思ってしまうのも嫌だ。実際には深夜にトイレに起きたついでの気まぐれだったとしても、人間の想像力は無駄に勝手に逞しい。
 SNSと呼べるものがmixiしかなかった時代、僕は足跡を非表示に、他人の日記を読んだ履歴も分からないようにする機能が欲しいと思っていた。それでも既読通知と即返信が当たり前となった今にして思えば、随分気楽なSNSだったと思う。

 暮らしていく中で、関わる相手を選ぶのが難しい、必要以上に詮索されても避けづらいと悩んでいる人は多いだろう。密度の高いSNSも同様で、僕はこうしたコミュニティには適さない。ネットもゲームも、誰の目も気にせず、好きな時に好きなようにやりたい。
 しかしブログを書く分には、あるいはツイッターで呟く分には平気なのだと気が付いた。これらは自分の意志で公開する領域を選択出来る。他人に見せたくない領域が一般平均より広めの僕の心だが、見て貰いたい領域もある、ということだ。
 僕は人間が嫌いなわけでも、会話が嫌いなわけでもないのだろう。ただ誰に対しても平等に関心を持つことは出来ず、平等に心を開くことも出来ない。俺に関心を持てよ、お前の腹の内を見せろよ、と言われるのがイヤなのだ。相手と公開領域の取捨選択が難しいから全部を閉め出して、その結果が一見人間嫌い会話嫌いだったのである。
 これは文章の形で情報を選び出すネットというツールがあったから分かったことで、現実の人の輪の中では永遠に自覚出来なかったかも知れない。

 プライバシーがどうのとうるさい時代に、夜中に携帯電話を見ていることまで筒抜けになるツールが流行る。不可解な現象だとは思うが、こちらは取捨選択が難しいから全て出してしまえ、という発想なのだろうか。

僕の一番の悪友様。

 とても大切な友人がいる。出会ったのは15年も前だ。彼女は中学校の始業式の日の教室で、新品のノートにアニメのキャラクターを描いていた。僕はてんで絵が描けない子供だったので、凄いなぁ、上手だなぁ、と感心しながら彼女を見ていた。

 出席番号の関係でたまたま隣の席だった彼女が僕のことを好いてくれた理由は、未だに謎のままだ。僕が体を壊して学校に行けなくなって、留年してクラスどころか学年も違ってしまって、大学も別々のキャンパスで、オタク同士なのに趣味は微妙に噛み合っていない。僕から彼女に連絡を取ったことはなかった。どうして友達付き合いが続いたのかと不思議に思う。それでも彼女は電話をくれて、メールをくれた。ブログなら引きこもりでも交換日記が出来る、と笑った。今でも互いに、仕事の隙あらばという感じで遊んでいる。

 でも、僕が居なくなっても、彼女は少し悲しむだけで何も変わらないだろうと。ずっとそう思っていた。

 本当にひどい間違いだ。僕が撤退してしまった教室という戦場で、彼女は卒業まで戦い抜いた。一人ぼっちが当たり前の環境だった僕よりも、絶望的な孤独がそこにはあった。周りに人がいないわけじゃない、友達だっていないわけじゃない、それでも誰にも心を開けない。なんていじましいんだろう。助けを求めて電話を掛ける相手が僕だった理由は、やっぱり思い当たらないままだけれど。
 いつも声を掛けてくれるのですっかり忘れていた。彼女は中学校の最初の日、周りの子に話し掛ける勇気が出なくてノートに絵を描いてしまうような女の子だった。

 彼女から差し伸べられた手は、救済の蜘蛛の糸ではなかったのだ。内気な彼女は僕以外の人間にその手を伸ばせなかったのだと、他でもない僕の存在を求めていたのだと、僕はずっと気付かずにいた。僕が握り返さなければ彼女の手も空虚なままなのだと、気付けないでいた。どうして僕にと首を傾げる前に、彼女も僕にとっては必要なひとだと、伝えなければいけなかった。
 最近ようやくそうと気付いて、僕は今、彼女に何かしてあげたくて仕方がない。その手を握り返すだけじゃなく、花や手紙や、彼女が喜びそうな全てのものを渡してあげたい。15年という月日の重みがずっしりと肩に掛かる。僕はその間、彼女に何を与えたというんだろう。

 困ったことに今、15年分の感謝の気持ちを受け止め切れる器が思い付かなくて、とりあえずは15年くらいは使えるアクセサリーを贈ろうと考えている。その程度は許されるであろう、人生の大きな節目を迎える君へ。
 僕が友達と呼んで貰える限り、いつか友達ではなくなっても、君の人生に幸多からんことを。

女という性別、僕という一人称

 このブログで、僕は「僕」を一人称として使っている。

 理由は簡単、自分自身の性別に自信がないから。戸籍上の性別も、肉体も女なのだが、僕は僕の性別に自信がない。

 性同一性障害、ではない。女の肉体に不満はないから、トランスセクシャルではない。また、女性として扱われることが不快ではないので、トランスジェンダーでもない。ただ時々、猛烈な違和感を抱いてしまう。それでTSとTGの区別が付く程度には調べてしまった。

 じゃあどうして「僕」なのか、それは男性の一人称じゃないのかと問われると確かにそうなのだけれど。
 関西での「僕」は極めて一般的な言葉だ。地域によっては未熟な男性の象徴とも聞くが、少なくとも僕はそのようには感じない。また多少の丁寧さを伴う言葉でもあり、目上の人に対して使っても基本的に失礼には当たらない。かしこまった場面ではもちろん「私」だが、目上の相手でも格によって更に言葉を使い分ける──同級生との会話では「俺」で構わないが、部長との会話では「僕」、社長とお客様にだけは「私」を使う、と表現すれば伝わるだろうか。
 そんなわけで日常会話において、「私」はほぼ女性専用の一人称である。「俺」は言わずもがな。中間を取ろうとすると「僕」ということになる。

 性別に自信がないってどういうことなの?という疑問を抱く方にはあえて問いたい、「肉体から性のシンボルを切除した時、あなたは胸を張って己の性別を語れるか」と。生殖機能の雌雄は、あなたの人格の性までもを定義しているのかと。
 僕の場合、肉体が女性であることにさほどのこだわりはないのだ。乳房を切除することになったら、もちろん肉体の一部を失う喪失感はあるだろうが、それ以上の感慨は抱かないだろうと思う。
 さりとて男性になりたいわけでもない。僕の肉体は生まれた時からこの状態なので、あえて別の形に変形させたいとも思わない。背はちょっと縮めたいけど。
 要するに、肉体の性別がどちらであろうと僕は困らない。どっちでもいい、どうでもいいようなものを、自分の肩書の一つとして挙げてしまって良いのだろうか……このふわっとした居心地の悪さをいくらか和らげるため、僕は「僕」という一人称を使う。

 とはいえ流石に、声に出すのは家族や親しい友人の前だけだ。自分の思考を吐き出す当ブログでは、基本的に「僕」を使って行きたいと思う。

追記:ブログ紹介に性別を明記してあるのは、多分読み手さんが真っ先に気にする要素だと思われること、僕も思考は女性寄りであることから。オタクとしては男性キャラにハマることが圧倒的に多いのだが、これは微妙に別の問題も孕んでいるのでまた後日。

悩みと願い事に利くおまじない

 「塩まじない」と「願い事手帳」をやっている。

 このブログの文体とは、ちょっとイメージが違うかも知れない。実際僕は七夕の短冊に夢のない願い事しか書かないタイプだが、しかし自力ではどうにもならない状況というのはあるもので、そんな時に辿り着いたのがこの二つだった。

 「塩まじない」は簡単なお祓いだ。困りごとを書いた紙に塩を包んで燃やし、灰を水に流す。燃やすのが面倒なら、トイレットペーパーに書いて塩を包んで流すだけでもいい。トイレットペーパーではありがたみも何もなさそうだが、要は水に流せる紙、ということだろう。
 紙には事実だけ、例えば隣人がうるさい時は「騒音がひどい」とだけ書き、「~で困っている」のような自分の感情については書かない。

 「願い事手帳」は名前の通り、自分の願い事が叶った状態をひたすらノートに書き出す。人には見せないし神様にお願いするわけでもないので、現実的に叶うかどうか、分不相応ではないか、そういうことは気にせず書く。ただし負の言葉は決して書かない。例えば人間関係で悩んでいる場合、「~との仲がうまく行っていない」等は書かず、「人間関係が円満になった」と願い事が叶った後のことだけを書く。

 細かな方法と注意点は然るべきサイトを検索して頂くとして、どうして僕がこれをやっているのかをお話ししよう。

 この二つはそれぞれ、文字を書き出して行うおまじないである。
 塩まじないの文章には事実だけを書き、感情を交えてはいけない。つまり悩みの種を、客観的事実として見据えることになる。冷静になれば対処法を考えられるかも知れないし、どうしようもないと分かればスッパリ諦めておまじないに頼ってしまえばいい。
 逆に願い事手帳は「こうなればいいのに」という願いだけを書き、そこに至るまでの過程と障害は全て無視する。自分の願望を自覚すると、脳はそれを満たすために猛烈な情報収集を始めるのだそうだ。でも放っておくと、「どうせ叶うわけがない」という無意識が情報を無駄なものとして捨ててしまい、願い自体も忘れさせてしまう。一度明確な言葉の形を得た願いは頭の中で漂っているだけの欲よりも強い、というのはお分かり頂けるだろう。手帳を読み返さないとしても、書き出す行為自体が脳に「これに関係することは忘れてはいけない」と教えてくれる。

 だから僕は僕の悩みを現実的に考えるために、僕の脳が望みを叶えるための手掛かりを捨ててしまわないように、このおまじないをするのである。

 実際の効果のほどは分からないけれど、悪いことは燃やして流して、叶えたいことは手元に書き留める。それだけでも十分、心は安らかになるように思う。