夜明けはいつになりますか

発達障害持ちゲームオタク、社会からドロップアウトするの巻

発達障害、おそらくアスペルガー系の。

 発達障害の検査を受けている。

 まだ診断は下っておらず、検査を受けようと思う程度にはそれらしい自覚がある、というだけの話だ。しかし今回の記事は「僕は発達障害かも知れない」だと非常にややこしくなるので、「僕は発達障害者である」ということにして書こうと思う。


 まずはリンクを貼った本からの聞きかじりで恐縮だが、「発達障害」の「障害」は心身の欠陥を示す言葉ではないことを説明しておきたい。
 例として、生まれついての左利きは決して欠陥ではないだろう。しかし少数派なので、右利きを前提に作られた社会の中では不便な場面も多い。
 発達障害の場合は脳の構造と言うか、使い方が違うのだそうだ。ものの感じ方が少数派であるために多数派の人々に馴染めない。脳のつくりが社会への同化に際して障害となる、ゆえに「障害」と書く。

 人それぞれの違いを認め合いましょう──その思想には賛成だが、根本的な「感じ方の違い」は如何ともし難い。

 例えば。
 要件のみのメールが好きだ。絵文字で飾ったメールは可愛いつもりかも知れないが、僕にとっては鬱陶しい。逆に僕が良かれと思って簡素なメールを送っても、相手は「事務的で怖い」という捉え方をする。

 例えば。
「私たちが、牛や豚と同じだっていうの?」
 とあるアニメの主人公の台詞に、「え、何が違うの?」と首を傾げた。敵役(?)と主人公らは最初から飼育者と家畜の関係だったのに、飼育者が家畜を潰して何がおかしいのか。家畜の側の「死にたくない!」という感情は想像出来るので、物語自体が理解不能ということはないが、「敵役の何が邪悪なんだろう……」という疑問は残る。件の敵役が作品のファンにボロカスに叩かれているのを見ると、幼少期のナウシカのごとく「やめて! この子なんにも悪いことしてないもの!」と庇いに行きたくなってしまう。

 知的障害ではないので言語による周囲との意思疎通は可能だ。しかし良いと感じること、されると嫌なこと、当たり前だと思っていることが違っており、普通に生活しているだけでも多大なストレスを受ける──語学堪能な人が遠い異国で暮らしている時のような感覚、と喩えれば分かって頂けるだろうか。お互いに厚意が通じないのは、結構きつい。

 幸いなことに、僕はそんな性質が問題にならない職場にありついた。無用なおしゃべりはあまりなく、当然それに参加しなければ浮いてしまうような空気もなく、皆黙々と作業に打ち込んでいる。真面目に仕事をしていれば、個々の価値観とは無関係に存在が許される。

 僕はやっぱり発達「障害」ではないのかも知れない。少なくとも今の職場では、ちっとも「障害」になっていない。

 それは結構なこととして、診断の結果が楽しみだ。自分の性格について客観的に見てもらうなんて、しかも医学的見地からだなんて、下手な占いより面白そうだと感じているのは……流石に、確かに、僕は風変わりなんだろうなぁ……