夜明けはいつになりますか

発達障害持ちゲームオタク、社会からドロップアウトするの巻

体育嫌いの正体を考える

 僕は学生時代を通じて、体育の授業が嫌いだった。クラス替え直後のレクリエーションの球技や、小学校の休み時間のドッジボールも大嫌いだった。

 そんな僕が最近、スポーツジムに通っている。
 元ヒキコモリの肉体改造は結構大変で、仕事帰りにジムに寄りたくても体を鍛えに行く体力がないというコメディみたいな状況になった。仕方がないので土曜日の午前中になるべく用事を済ませ、夕方にジムに行き、そのまま帰宅して崩れ落ちる、日曜日は疲労回復に充てるという週単位の生活リズムを形成した。
 最初の頃はすぐに息が苦しくなるし、体は冷たいままなのに水のような汗を大量にかくのが気持ち悪くて仕方がなかった。
 それが今では、息が上がってからもそこそこ動けるようになり、運動すると普通に体が温まる。マシンを扱える時間が少しずつ長くなっているのが嬉しい。くたくたになるまで体を動かしてぐっすり眠るのも気分がいい。

 ここで僕は、「自分はスポーツが嫌いだ」という認識を改めることになった。

 じゃあなんで体育が嫌いだったのかと考えてみると、運動とは微塵も関係のない要素が嫌いだったのだ。
 たとえば、体育の授業では多くの球技を扱う。しかし僕はモノに対する距離感が希薄で、ボールをうまくキャッチすることが出来ない。顔面キャッチは漫画の定番ギャグであるが、ソフトボールが左眼球に直撃して失明しかけたともなれば、嫌いになって当然である。
 人に合わせて何かをするのは苦手だし、練習しているところをクラスメイトにじろじろ見られるのも嫌だ。
 自分が負けるのは楽しくないが、勝ったところで負けた相手の手前嬉しそうにするのも気が引ける。相手のミスで得点した時にガッツポーズをする人はどういう神経をしているのかと常々思っている。
 こういう思想の主は、日本の競争的体育教育システムとはすこぶる相性が悪い。運動そのものは嫌いじゃなくても、運動に付随する要素が嫌いであるがために、「自分は運動が嫌いだ」と思い込んでしまうのである。

 そう考えれば、僕はレクリエーションのスポーツが嫌いだったわけじゃない。親しくもない人といきなりチームを組まされ、馴れ馴れしくハイタッチなどさせられるのが嫌だった。それをやらないと浮いてしまう空気も嫌いだ。
 休み時間のドッジボールも然り。自由にしていいはずの時間に、運動場に拘束されて大好きな読書が出来なくなるのは理不尽である。

 誰にも関心を向けられることなく、誰とも競うことなく、ただ自分の肉体とだけ向き合って高めてゆく。
 成人して、知り合いの一人もいないジムに入って、僕はようやくそういう運動の仕方が出来るようになった。運動を好きだと思えるようになった。

 思い込みによって嫌いになってしまっているものが、きっと他にも沢山あるのだろう。嫌いなものは嫌いで構わないが、好きなものを少しずつ増やして行けたら、人生は楽しいものになりそうだ。