コミケ原稿と謎の自己肯定
コミックマーケット、略してコミケ。
オタクでなくともイベント名は聞いたことがあるのではなかろうか。盆と暮れにそれぞれ三日間開催され、来場者は60万人を数える世界最大の同人誌即売会だ。
このイベントに向けて、僕も漫画を描いている。
が、僕はコミケに参加したことがないし、今冬も参加しない。
じゃあ何故描いているのかというと、次のコミケで発行される本の企画に「招致」を頂いたからだ。
これは「私の作る本に何ページか描いてくれませんか」と人に依頼する文化で、基本的に依頼料などは発生しない。代わりに依頼された側は、印刷費やその他経費を負担せず、完成した本を献本という形で頂く。依頼されて寄稿をする人間は、少人数で作る本なら「ゲスト」、大人数の場合は「参加者」「執筆者」と呼ばれる。
僕は生来のお調子者なので、依頼を頂くと大抵は二つ返事だ。今までに寄稿した原稿が、数えてみたら厚めの同人誌を一冊作れるくらいあった。それだけ描いたけど自分では印刷費もイベント参加費も一銭も出していません!というのは褒められた話ではなく、むしろ恥ずかしいことだと思う。
しかし妙なことに、僕は自分自身の作品への肯定感が強い。恐らく大多数の自分で本を作っている書き手よりも。それは何故か。
多くの書き手にとって、「評価されない」は切実な悩みだ。隣人が100部を売り上げているのに自分の本は1部も出て行かない、という状況はままある。尚、原作の知名度や書き手の作風にも左右されるが、100部は弱小から中堅の部類だろう。
60万人も来ているのに、自分の本の部数は──同じ作品の二次創作なのに、あの人と比べれば──明確過ぎる数字の残酷さが、そこにはある。
一方の僕は依頼を受けて描いているわけだから、大前提として、僕の作品を好きになって招いてくれる人がいる。自分の本ではないので発行部数は分からない。
つまり同人作家を苛む否定感の根源である数字が見えず、肯定の材料だけが「招致」「感想」として見えている。謎の自己肯定感は、否定材料が見えていない、というちょっと気の毒な理由で芽生えたのである。
我ながら気の毒だとは思うが、僕の目玉は二つしかないのだ。「10部しか売れなかった」と数字に目を奪われて、その本に興味を持ってお金を出してくれた10人の存在が見えなくなってしまうのが何より怖い。
損得勘定の要らぬ趣味の世界でくらいは不都合な現実に目隠しをして、自信を培って日常生活に戻って行く、そういう考え方をしても良いんじゃないか。
……良いんじゃないか、とは言いつつも、やっぱり自分だけの本を作ってみたいとも思う今日この頃。