夜明けはいつになりますか

発達障害持ちゲームオタク、社会からドロップアウトするの巻

結婚間近のハイテンションアラサーを見守る会

 友人のテンションが変で心配だ。
 友人は僕の同級生、つまりアラサーの女性なのだが、先日彼女に人生初の彼氏が出来た。それ自体は祝福してやりたいと思う。
 しかし「初カレっていう甘い響きに浮かれないようにするわ」との発言に、「その年齢で初カレという事実は苦いだろ」と突っ込まずにはいられない。ツーショット写メを友人に送りつけるなんて大学生でも普通やらない。どれだけ浮かれているというのか。

 特に心配なのは、彼女が「自分の意思で何かをしたことがない」という点だ。親の意思で努力より素質がモノを言う中学受験に臨み、そのまま大学までエスカレーター、就職は今時稀に見る好待遇職場にコネ入社、さして責任を負わない一般職。そして今回の彼氏も、実はややラフなお見合いとして親が掴んで来た縁談なのであった。
 今まで恋人が出来なかったのは当然だと思う。だって彼女は、自分の意思で相手を選んだことがない。尚、ここで言う「相手を選ぶ」とは収入ルックスその他の話ではなく、「この人が好き、お付き合いしたい」という選択のことである。それをせずにひたすら八方美人を貫き、言い寄って貰えるのを待った結果が「29歳という年齢=恋人いない歴」だ。

 上記のような経歴の彼女は、当然挫折を知らない。志望校に手が届かなかったことも、面接で人格を否定されたことも、仕事の失敗の責任を負ったことも、男性に振られたこともない。ただ本人はアトピーを不幸の種として嘆いており、「幸せになりたい」というようなことをしばしば口にする。
 きっとその彼氏と結婚しても、子供が出来ても、彼女は「幸せになりたい」と愚痴るのだと思う。今ひどく浮かれているのは、「ほら、私はこんなに幸せでしょう?」と自己暗示を掛けるためのパフォーマンスだ。大袈裟になって当たり前である。
 自分が口にしているものは本当の幸福じゃないと薄々感じてはいるようなのに、とうとう親が敷いた幸福のレールを降りられないまま伴侶の選択というところまで来てしまった。例えば受験に、就職に、恋愛に失敗していれば、どこかで脱線出来たかも知れないと思うのだが。

 ひたすらに、心配である。

理解者は居なかったけれど

 黒バス脅迫事件の犯人の手記が興味深い。と言っても、このエントリ自体は事件とはあまり関係がない。


 彼の手記を読んでいて、子供の頃、アトピーや貧乏を理由に苛められる子が羨ましかったのを思い出した。
 僕も苛められっ子だったのだ。標的にされた理由は動作や話し方が変な不思議ちゃんだったから。
 変なことをするお前が悪い、この理論を振りかざす最強の加害者は教師である。彼らはいじめのあるクラス・学年という汚名を返上すべく、ことあるごとに僕の言動を矯正しようとした。しかし僕の場合は本人も悪目立ちを嫌っており、努力した上で変だったのである。目立たずに済む方法なんぞ今でも教わりたいと思う。
 だから病気や生まれが理由の、少なくとも人格の欠陥とはされず、正論が味方をしてくれる苛められっ子が羨ましかった。

 それでも踏みとどまれたのは、両親が理解者だったからだ。
 彼らがいなければ、俺はおかしいんだ、と性格を変える努力もしたかも知れないと思っていたのだけれど、この手記を読む限りそんなことはなさそうである。

 幸福なことに、僕には犯人の気持ちが分からない。
 ものの感じ方は発達障害を疑う程度には変わっているから、感覚を他者と共有できない苦痛は分かる。全ての行動はリスクヘッジであり、努力の結果として何かを得られるなんて思っていない、僕もそこには共感はできる。
 でも僕の場合は、両親が分かろうとしてくれた。結局共有出来ず終いになることが多かったけれど、頑張ってくれているのは分かった。親に恵まれ、中学に上がってからは師にも友にも恵まれ、オタクの出力趣味を持ってからは認めてくれる人もいると知った。

 僕がこの犯人みたいな人に出来ることは、残念ながら何もない。幼少期に固められた世界の見方を変えられる人間なんていないと思う。
 せめて僕は自分に子供が出来たら、あるいはそういうことに口出し出来る友人が子供を持ったら、彼の手記の内容を意識して話をしたい。

 ところで漫画家とは、一作ヒットしても次が駄作なら一発屋の烙印を押されてしまう職業であり、どれだけ売れていようと勝ち組の成功者とは限らない。また世間一般では、オタクが犯罪を犯してオタク関係のイベントがなくなった、くらいの認識しかされなかったように思う。
 もちろん犯罪行為自体も頂けないが、動機に対して標的の決め方を誤ったのではないかしら、と苦言を呈しておきたい。誰が標的でもダメなものはダメだけどね。

頭がおかしい子供

 明けましておめでとうございます。年末も年始もない思考記録ではありますが、挨拶くらいは流石に。



 子供という生き物は精神異常者であると、僕は考えている。少なくとも僕が彼らと同じ言動を取ったら、とりあえず先天的な知的障害ではないから、たぶん窓に格子の付いた病院に送られる。子供の真似とて食玩片手にスーパーの床に転がらば是即ち狂人也、大人げないことと言動が完全に子供のそれであることは別物であろう。
 未熟なのだから仕方がないと言えば確かにその通りで、未熟という正当な理由により不完全さが容認されているとも言える。

 そんな精神異常者を、年齢のみを基準として分類し収容する施設が「学校」だ。もしここに馴染めない子供がいても、その子を「社会不適合者」だなんて呼ばないであげて欲しい。だってみんな頭がおかしいのだから。

 子供同士は苦手だが大人との受け答えは出来る、不登校を発症する子には案外こういう子が多い。
 大人と子供、年齢に隔てられた感性の違いを超えて対話が出来る彼らは、おそらく社会不適合という言葉の対極に位置している。もちろん大人からの気遣いはあるだろうけれども、この人はこういう話が苦手だとか、適切な言葉が見つからないようだけどこう言いたいんだろうとか、そんな配慮は大人同士なら当たり前のものだ。
 しかし肉体の発達度が同じ程度の人間の大多数は、そうした気遣いをしてくれないのである。相手からの気遣いがなくて疲れることもあれば、自分だけが気を遣っているようでしんどいこともある。それが辛くて学校で話せなくなってしまうと、彼らには社会不適合のラベルが貼られる。クラスメイトからも、教師からも、親からも。
 恐ろしいことだ。職場とは別の趣味の人間関係を拠り所としている人は多いことと思うが、子供は「学校」という場で居場所を勝ち取れなければ社会的に死んだものと見做される。

 子供は何をするか分からないし、理屈が通じないから嫌だ。
 成人であれば許されるはずの主張を、同年代の人間が言ってはいけないのは何故か。説得力のある解説が、どこかにあるなら読んでみたいと思う。

限りある人財を大切に

 クリスマスの街でも、僕の転職活動は続いている。
 今の僕は特定派遣、「派遣元の正社員」である。しかし派遣先ではあくまでも派遣扱いで、休み時間には契約満了を見据えた仕事探しをしても問題ないと言って頂けた。このブログもますます更新が滞りますがご容赦下さい。

 不思議に思うのだけど、なぜ僕の派遣元はこんな労働条件で人を雇うのだろう。「こんな」とは賃金・労働時間ともに法律スレスレ、本社ではサービス残業の存在により事実上アウトとなる水準である。

 企業活動における財は三つ、あるいは四つだ。と、経営学の講義で習った。
 その四つとはすなわち、モノ、カネ、ヒト、情報である。基本はモノを作ってカネを得ること(※)だが、モノを作るのはヒトであり、ヒトの中には知識や経験といった情報が蓄積されている。情報があるからこそ顧客ニーズを汲み、モノを作り、流通経路を開拓することが出来る。得たカネは次の事業資金となる。この循環が健全な経営を生む。

 しかし先のような労働条件では転職しても給与も休日も減りようがないため、多くの人は条件の良い転職先を見つけてサッサと辞めちまうのであった。
 そうでなくとも技能の育っていないヒトは、財どころか周囲の足を引っ張る負債だ。しかし技術職として育ったヒトは転職市場価値も高くなり、それが片っ端から出て行くとなると、会社は負債の抱え損ということになる。損をした分は残っている従業員の給与を下げて補填する仕組みだから、完全に負の連鎖にハマっている。

 僕は今、派遣会社に登録している。一般派遣も良いが、目当ては「紹介予定派遣」、正社員登用を見据えた試験採用である。
 登録の際に今の仕事を申告したら、専門技能なので時給も高めの仕事が紹介出来ると言われた。ご紹介頂いたお仕事の条件を見ながら電卓を叩いたら、休日数も収入も今の1.5倍になると分かって白目を剥いた。
 話を戻して僕は特定派遣であるから、お金はまず派遣先から派遣元へと支払われるのだが、果たしてそれは一般派遣の2/3という破格なのだろうか。もし同額だとしたら一般派遣同様の経費が引かれた上、僕が貰えるはずの額の1/3はピンハネされていることになる。同額とは限らず、派遣仕事のない期間も給与が貰えることを思えば……とはいえ限度というものがあろう。

 給与を上げれば人は残るはずだ。5年も在籍した人は、利益を生む仕事が出来るようになっているはずだ。そうした視点を持たず今いる人間から搾取するばかりの企業に、僕は骨を埋めたくはない。

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博物館の中の扉

 せっかくの休日を転職活動のみに使うと、きっと気持ちが腐ってしまう。
 大阪で幾つかの面談をハシゴした僕は、合間に大阪歴史博物館のお守り刀・二次元VS日本刀展に行って来た。

 最近の博物館は「写真撮影自由」というのが結構多く、この日本刀展も撮影禁止の展示品は僅か二点だった。僕も印象的だったものを二つ撮影させて貰ったのだけれど、一方は写真としてあまりに地味、一方は現物を見て感動して貰いたいので、恐縮ながら写真はアップしないでおく。

 僕は元々、博物館や美術館が好きだ。心がおうち大好き引きこもりなものだから目ぼしい特別展がないとなかなか出向かないけれど、とりあえず興味を持つ側の人間ではある。
 こと美術品は、現物を見てナンボだと思う。写真で見れば十分、という人に対しては胸ぐらを掴んで往復ビンタをかましたくなる。

 いや、残念ながらそういう気持ちも分かる。美術館目当てで海外旅行に行くような両親を持った僕ですら、絵画は「綺麗だとは思うし価値のあるものなら見ておくか」という程度にしか認識していなかったのだから。
 僕の転機は20歳の時に訪れた。一枚の絵に視線が吸い込まれ、絵の世界に入っていくような錯覚を覚えた。
 その時に僕は、言葉では説明し難い絵画の扉を開く方法を学んだのだろう。歴史的・美術的価値についての造詣は未だ皆無であるが、絵を見て感動出来るようになった。開きたくなるような扉に出会ったことがない、扉の開き方を知らない人が無関心なのは仕方がないとも思う。

 今回覗いた日本刀展も、どちらかと言えば美術展に近い。現代刀匠の作品には当然歴史的価値はなく、職人の技術と金属の機能美が展示されているという印象である。歴史的な謂れなら文字にしてここに書くことも出来るが、見ているだけで怖くなるような銀色は写真に写し取れるものではない。
 二次元とのコラボ企画では漫画に登場した刀の再現の他、イラストレーターと刀匠でデザインを練りながら作った刀も展示されている。物理法則や材料の強度を無視出来るというイラストの特権を放り捨てて作られた刀は、いずれも美しく強烈な存在感を放っていた。こちらも写真では何の意味もないことはお分かり頂けるだろう。

 誰にでもオススメ出来る展示会だとは、残念ながら僕には言えない。二次元とのコラボ展示もオタク相手なら無条件に勧められるようなものではなく、武器をキャラクターの付属品・小道具としか捉えていない人は肩透かしを食らいそうだ。
 代わりに武器自体に燃えを感じるオタクさん、そして工業品を美しいと思える人にとっては大変面白い展示だと思いますので是非どうぞ。

流行語大賞という名の烙印

 少し前に発表された「2014年流行語大賞」。一年間の時事ネタや名言珍言を振り返る、年末恒例の企画だ。これにノミネートされるというのはそれだけ注目を集めたということで、選ばれる理由には良いものも悪いものも混在している。

 芸人さんのネタが選ばれるのは、もちろんウケているということだから良い理由でのノミネートであり名誉なこと──なのだろうが。

 一回きりの珍言ならともかく、お笑いのネタを安易に候補に入れないで欲しいと僕は思う。受賞した芸人が売れなくなるというジンクスがあるからだ。

 ジンクスと言っても、ちょっと考えればからくりはすぐに分かる。
「2014年の流行語大賞に輝きました!」
 ということは、そのネタは2015年には当然去年のものという扱いを受ける。「もういいよそれは」「新しいことは出来ないのか」等と観客に思われてしまえば、流行語になるほど受けたはずの看板ネタが使えなくなる。芸人にしてみればこれほどの痛手はあるまい。しかも一度は売れてしまったものだから、二枚目の看板作成の難易度は恐ろしく高い。

 同じお笑いでも、そう来ると思った、待ってました、あるいは「やらないのかよ?!」──細く長く使える鉄板ネタ・定番オチというものがある。予測出来るのに笑ってしまう、この路線を突き詰めた結果が、例えば吉本新喜劇の様式美だ。

 瞬間の爆発的人気と様式美化、どっちが良いのか僕には分からないが、当事者の芸人さんには流行語大賞を辞退するという選択肢が必要なんじゃないだろうか。流行語大賞とは過去の人の烙印であり、徹子の部屋の上を行く最強の芸人殺しなのである。

軍歌と横文字と選挙演説

 軍歌について調べ始めた。

 きっかけはゲームの二次創作小説を書きたいがためで、スキルの中に味方を強化する歌があるのだ。ゲームの設定上は聖歌なのだが、書こうとしているキャラクターにはお祈りよりも仲間の鼓舞が似合う気がした。

 調べるのが初めてというだけで、僕は元々この手の楽曲が好きである。士気を高めるべく作られた曲は勇ましくて格好いいと思う。
 断わるべくもないだろうが、「戦争を背景に生まれたものが好き」と「戦争賛美」は別物だ。僕が過去に話した戦車や戦闘機のオタクらは、「好きなものが壊されるのは耐えられないから戦争はなくなって欲しい」というすげぇ思想の持ち主であった。彼らの話を聞いた後では、「戦争は良くないと思うが軍歌の勇ましさが好き」なんてどこにも矛盾はないような気がする。

 軍歌に限らず、歌謡曲も昭和のものが好きだ。
 僕は今時の横文字混じりの歌詞に付いて行けない。と言うか、歌詞の内容を理解する前にルー大柴さんを思い出してしまい、ひどくしょっぱい気分になるのである。ちなみにルーさんのことは大好きです。

 さて、日本の軍歌は当然骨太な日本語の詞だ。しかし本の虫である僕ですら「見たことはある」程度の、書き言葉としても使わなさそうな単語が沢山出て来る。
 戦場で軍歌を口ずさむ人々は意味を理解していたのだろうか。辞書を引かねば意味が分からないというのであれば、それは脈絡なき横文字と何が違うのだろうか。

 何も違わないのかも知れない。

 日常の中で使う言葉には否応なく生活感が伴う。それを避けるためには「使わねーよそんな言葉!」が必要なのだろう。だから非日常的な高揚を狙う軍歌はマニアックな漢語が、現代歌謡は急速に普及した横文字が織り込まれるようになったのではないか。

 土地ごとの文化や価値観を反映するのが言葉という生き物だから、適切な和訳が存在しない場合はそのまま輸入するしかないとは思う。
 例えばこの記事だけでも、「キャラクター」は訳が利かない。いわゆる「キャラ」、内面までを指しているので、「登場人物」では不足である。「マニアック」は「知る人ぞ知る」という訳は可能だが、形容詞一つにまとめた方がお手軽であろう。

 そうした事情がないのであれば、「マニフェスト、すなわち公約」なんてのは言うのも聞くのも大層面倒くさいので、「公約」と一言にしておいて頂きたいと思う総選挙直前。
 選挙演説は歌じゃないのよ、小泉元総理が凄かったのは耳慣れない単語で「何か凄そう」と注意を引いてから明瞭な説明を始めるという話の上手さであって、普通の人が単語だけ引き継いでも分かりにくいだけなのよ……
 さて、どこに投票しましょうかねぇ。

2015年年賀状の図案

 僕の愛用のペンタブも各種ソフトも、親に買ってもらったものである。
 元ニートとはいえこれに限っては恥ずかしい話ではなく、誕生日や進学の際のプレゼントをアラサーとなった今も大事に使っているという話だ。ペンタブは先端を取り換えながら、かれこれ10年酷使している。

 今年もその恩が家族に還元される時期がやって来た。年賀状の作成は、オタクのお絵かきスキルが家族の役に立つ唯一の機会である。
 我が家の年賀状は長年父がプリントゴッコを使って作っていたのだが、先の子年に「プリンターでこういうのも刷れるけど……」と描いて見せたところそのまま採用され、以来毎年僕がイラストを描いている。デザイン被りの心配はないし、編集もそれなりに自由が利くし、僕としても年々レベルアップしているような気がして(気がするだけかも知れないが)結構楽しい。

 というわけで、こちらが我が家の今年の年賀状の図案、の雛形に使ったイラスト。個人の年賀状に限り、どうぞご自由に加工して使って下さい。
 ……ただしくれぐれも、我が家には送らないように。

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奇人変人オンリーの学級で個性全開で学んだ時のこと

 高校生の時、僕は理数系特別クラスに所属していた。全員が卒業研究を抱え、ジュニア学会のようなイベントへの参加は必須、大学の講義を受け、研究施設の見学にも行く。

 ……というエリートっぽいカリキュラムは事実の一側面に過ぎない。

 受けたい講義があって大学に行く以上、他人と合わせては本末転倒、原則は個人行動である。高校の校舎には週の半分もいないので、部活も他クラスの友人との付き合いも出来ない。生徒会会議にも参加出来ず少人数であるため、学校行事では常にないがしろにされた。そうでなくとも国際科学交流会に向けた英文パネル作成とスピーチ原稿の暗記に必死だというのに、文化祭の劇の準備なぞクソ食らえであった。
 結構な数の学生が、そんな環境に耐えられず普通のクラスに戻って行った。3年生まで残ったのは普通のクラスで浮いている、クラスが丸ごと浮いていても問題がないイロモノばかりである。

 窓際のくすぶり、自己主張の激しい悪目立ち。方向性の違うはぐれものは、一つのクラスの中でも当然てんでばらばらに好き勝手していた。しかし意外なことに、僕らはクラスとしての仲が良かった。

 自分の世界を最優先とする残念な人間は、一丸となって頑張ろう!などと時間の用途を勝手に決められることが大嫌いだ。だがそんな人間ばかりが集まると、それぞれの世界を持ち、時として一人で篭もることを許し合える。互いが良き理解者であり友人だった。
 そうでなくとも全員が変人であるため、同調しなくても後ろ指を指されない、と言うか同調したくても多数派の基準となる共通点がなかった。折り合いの悪い者同士は当然居たが、一対一ではどちらが正しいという話にもならず、あらゆる差異は容認され共存していた。
 かくして出来上がったのが「お前が好きそうな記事があったから持って来た」「そういう話はあいつが詳しいはずだから聞いてみよう」等の会話飛び交う、方向性はバラバラのくせに妙に結束の固いクラスである。卒業研究は特別クラスの花であり、授業の中に進捗報告会も含まれていたので、それぞれの求めている情報が把握され交換されていた。

 皮肉にも僕らは、「同調を求めないこと」が出来ない人間を排斥することで結束を得たのだ。
 みんな自分の道を突っ走っているのに。お前はどうして同じように出来ないの。どうしてみんなの邪魔をするの。
 最初の一文を「みんな一緒に頑張っているのに」に置き換えれば、僕らが普通のクラスでずっと聞いていた無音の言葉になる。少数派の価値観の人間が集まることにより、本来多数派であるはずの人間が排斥されるという逆転現象が起きた。

 僕はこのクラスでの経験から、排斥する側が正しいわけでも、される側が間違っているわけでもないと確信を持った。ただ譲れない領分があるだけ。そして距離を置くためには、少数派が出ていくことになるのだろう。
 違うこと、少数派であることは悪いことじゃない──よく聞く言葉の割に実感を持っている人は少ないんじゃないかと思う。少数派として多数派を排斥する経験なんて、滅多に出来ることではないだろうから。

 どっちも間違っていないなら、僕が譲ってあげれば良い。自信があるから曲げられる。
 そういう風に考えられるようにしてくれたクラスメイトとの、忘年会を兼ねた同窓会が近い。今年はどれくらい我が道を突っ走って来たのか、みんなの報告を楽しみにしている。

 尚、本日の記事のタイトルはこちらを元ネタとさせて頂いた。
発達障害者ONLYの職場で能力全開で働く人たちのこと - Togetterまとめ
 僕らのクラスもそうだったんじゃないかなぁ。特別カリキュラムをこなせる程度のオツムはあるから、後天的学習により多少の処世術も身に付けてはいたというだけの話。

別名メモ帳作家

 「あかほりさとる」というライトノベル作家について、思うところがある。



 僕の世代にはこの方のラノベで育ったオタクも多かろう。僕も友人に借りて、と言うか押し付けられて結構読んだ。

 ラノベとは、主にアニメ・漫画的なストーリーを書いた小説である。小説と言っても文学的価値を無視した10代・オタク向けの読み物なので、文章としてはあまり褒められないものも多い。一般作家では有川浩中村うさぎ(このお二方は元々ラノベレーベルの出身)、三浦しをん乙一などがそれっぽい文体だと思う。敬称略の独断で恐縮です。

 あかほり氏のライトノベルは紙の白さで有名であった。紙質の話ではもちろん無く、一行の文字数が少な過ぎて紙の白が眩しい。

 国語の授業での新聞記事の要約を思い出して頂きたいのだが、削っても意味が通じる語句はどれか、文字量を最低限に減らす作業は長文を書くより頭を使う。文庫本は一行40文字、それがメモ帳と揶揄されるほどの字数の文章で物語を運ぶのだから、化け物のような作家である。
 と言っても一行の中での文章力が凄いわけではなく、「ドォン!」の四文字だけで物音が表現されていることがままある。この行の下半分は白紙だ。
 しかしこの四文字から、読者は「ああ、彼があそこでアレを爆発させたのね」と状況が理解出来る。キャラクターが立っており、流れにも無理がなく、恐ろしく少ない文章の中にも物語の理解に必要な要素は揃っているからである。

 あかほり氏の本業はアニメの脚本家だ。それも外伝やアナザーストーリーを本にしませんかとお声が掛かるほどの売れっ子。だからこそ先述のような芸当が出来たのだろう、ライトノベルも脚本に近い形で、懇切丁寧に書かない、読まない、小難しい文章に掛ける労力を取り払って物語を楽しむ──僕にとっては「これぞラノベ」と思える本だった。残念ながら今は本業に専念しておられるそうで、ライトノベルの棚でお名前を見ることはない。

 僕も確実にこの方のラノベに影響を受けた。文章を書きながら、時折ではあるがこの語句は読者に必要なのか、あの情報が抜けてはいないかと自問することが出来るようになった。小説に限らず、大切な視点だ。
 しかしそれ以前に、このブログ自体は必要なのだろうか……切なくなるので深く考えるのはやめておこう。